@、巌流島(船島)の決闘について・・・CJNさん

最近読んだ本というのは「宮本武蔵50の真説!!」です。この中で武蔵と小次郎の対決は細川忠興と忠利(こちら側に長岡佐渡はいた)との対決という藩内の事情によるものであった。決して私闘ではないとあります。決闘に使用した木刀は舟の中で作っている映像が多いのですが、この作品では宿泊している船宿で制作していましたね。当然このような立派な木刀が舟中にいる短時間では出来るはずもなく、自前の木刀で試合をしたというが真相だろうと思います。これも最近読んだのですが、司馬遼太郎の「宮本武蔵」では船宿で作っています。

打ち殺すという記述があるのは「沼田家記」で、これは武蔵の死後45年ころ書かれた物で当時細川家の家老職にあった沼田延元が筆者であり、彼は決闘の立会人であった。この中に舟島決闘見聞録というのがあり、(武蔵も小次郎も弟子は1人も連れてこない約束だったのに武蔵側はこっそり弟子を忍び込ませていた。そして、決闘後、小次郎は一度蘇生しているのに武蔵の弟子がよってたかって小次郎を打ち殺した)と言うことが書かれているようです。筆者は武蔵側の人物であったといわれています。また、死後69年に書かれた弟子からの聞き取りによる「武芸小伝」日高繁高著にも武蔵が弟子達を助太刀に揃えていたとあるそうです。

私は、舟島の決闘が正式の決闘であるにもかかわらず何故このように弟子達が決闘場忍び込みその後蘇生した小次郎を打ち殺すことが出来たのかが良く理解できないところです。この場所には、双方の立会人がいたはずです。江戸時代に入り幕府が厳しく仇討ちなどを規制しますが、それほどまでの厳しさがなかったと考えればそんな事があったのかもしれませんね。

「二天記」は武蔵の死後110年後に書かれています。吉川武蔵は主にこれによっているようです。その他武蔵の出身地などいろいろとあるようです。秋月や三奈木にも武蔵の父親の伝説があるようですね。

                                 【 2003.8.20(水)  記 】

 A、新説宮本武蔵について・・・CJNさん

いろんな考えがあり資料の解釈によっては全く違う結果が出るものですね。司馬遼太郎の真説宮本武蔵を読んだのですが、吉岡清十郎や伝七郎、又七郎なる人物はどこにもその名がなくて吉岡家はその後もしばらく存在し憲法染は健在であったとありました。武蔵と吉岡憲法の対決は一度あり、その時は木刀で対決し、武蔵は勝ったと言ったそうです。結局立会人に武芸の心得が無く判定できなかったとあります。そして、再度の対決も無かったとしています。真剣なら武蔵が勝っていたのかもしれないと言う微妙な試合だったのかもしれません。あまり突っ込むと切りがないです。でも面白いですね。

この後は五輪書をすこし読んでみようと思っています。これも50の真説には、岩波や講談社の物は解説者が武芸に疎いので間違った解釈をしている部分があると書いています。講談学術文庫のものを買いました。50の真説はどちらかといえば武蔵びいきの人たちの集まりでしょうか、というより武蔵に異常に関心があるのでしょうね。

                                 【 2003.8.22 (金) 記 】
 B、その後の武蔵について・・・CJNさん

大河ドラマの「武蔵」も巌流島の決闘が終わりました。武蔵は今回の決闘では事前に用意した櫂を削った木剣を使いました。彼は武器には凝ったようです。独行道にも”兵具は格別よの道具たしなまず”とあり、兵具は格別といっているように「伯耆安綱」を愛用し、晩年は「兼重」を愛用していたそうです。その彼が単なるあり合わせの櫂を使ったり舟の上で木剣を用意するなどとは思えないところです。
この後は大坂の陣まであるらしいので、どのような筋立てになっていくのかが楽しみです。28日は農業にせいを出していましたね。
 
 通説では、武蔵は大坂の陣に豊臣方として参戦したと言われています。しかし、「宮本武蔵50の真説」によると、武蔵は養子である三木之助をこの大坂の陣の4年後には姫路藩の本田忠刻タダトキに出仕させることに成功しています。大坂の陣で豊臣方であった者の縁者が徳川譜代の大名につかえるというのは不可能のようであり、大坂の陣において豊臣方につかえたというのは考えにくいとあります。三木之助は忠刻の死に殉じますが、この時にすでに伊織という養子がいて、三木之助が殉死した後に伊織を姫路藩の隣国の明石藩小笠原家に出仕させることに成功しています。そして、後に伊織は小笠原藩の筆頭家老4000石まで出世しました。そして、後に小倉・手向山に顕彰碑を建てるのです。この時の藩主小笠原忠真タダザネの妻は、忠刻の妹であったそうです。これで武蔵の養子作戦は大成功となったわけです。武蔵は少しの禄で細川家につかえたのですが、養子の伊織は小笠原家で大身となったのです。ここに自分の仕官をあきらめ、養子の後見人として成功した武蔵の面目が躍如としています。また、武蔵ただの剣豪ではなかったといわれています。書画にも通じて、刀も鍛ったそうで、教養人として認められていたらしいのです。だからこそ武蔵の推薦する養子が出世できたのかもしれませんね。何か身びいきが過ぎたようです。
 
武蔵は単なる武芸者ではなくて、世の中を良く認識して世渡りも上手であったということで最近になってとみによりファンなりました。しかし、いわゆる女性の話題は無かったと言われているようです。
 
*細川は熊本へそして小笠原が小倉へ来るのですね。小倉城は大学が小倉でしたから見慣れています。8年間今の小倉北区に住んでいました。巌流島へはその時に行ったことがあります。35年くらい前です。 
*本田忠刻は千姫を妻とした家康の家臣です。忠刻と三木之助は今で言うホモで、三木之助の禄高は700石だったそうです。当時は男道と言われていたようです。
*宮本伊織は剣の腕はそれほどでもなかったようで、武蔵から印可を受けなかったようです。また、遺品にあった武具なども受け取るのを遠慮しているそうです。

                                 【 2003.9.29 (月) 記 】 

宮本武蔵の部屋

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